今、田中角栄が熱い!熾烈な総裁選の内幕を探る

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本日2016年12月7日(水)、午後9:00からHNK BSプレミアムにてアナザーストーリーズ

「そして田中角栄は首相になった~44年目の証言~」が放映される。

混沌とした世の中では、いつの世も力ずよく強引とも思えるカリスマ性で引っ張る者が大衆を

ひきつける。

まさに田中角栄はそういう男であった。

彼のあだ名は、「コンピューター付きブルドーザー」そのほか現代の秀吉に例えて「今太閤」

や大衆の味方「下町の総理」などまさしく彼そのものを言い得て妙である。

何故「コンピューター付きブルドーザー」?

当時としてはまだまだコンピューターと言えども現代のような緻密で即効性のある物と比べよ

うもないほど大きく高価な割には性能は今一つだったのだが、さすがに人間の能力をはるかに

越えた優れものだった。

一度言われたことは間違いなく記憶し、決断したことは何があろうとも確実に実行に移した”角

さん”の”角さん”たる所以を一言で言い表したあだ名だったのだ。

休日ともなれば目白御殿として知らない者はいないと言われた田中邸には、早朝から長蛇の列

をなして各界より陳情客が集まった。

そして”角さん”は、必ず一人ひとりの陳情を順番に聞いて、即座に「良し分かった」、「それはダメだ」と答えを出し陳情客をさばいていったという。

また、「良し分かった」と答えたものには、間違いなく実行に移したと言われている。

一日に100人単位で並ぶ陳情客全てを自分で処理した上に、「出来る」と答えたものに対しては必ず実行したことから「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれた所以だという。

小学校しか出ていない

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1918年(大正7年)5月4日、新潟県刈羽群二田村(現在の柏崎市)に二男として生まれた。

小学校時代は、勉学に優れ級長を何度も勤め卒業式には総代として答辞も読んだほどであった。

しかし家が貧しかった事もあって、進学を諦めたようだ。

1933年(昭和8年)二田高等小学校を卒業後土木工事の現場仕事をひと月ほど働いてから柏崎

の県土木派遣所に勤めた。

1934年縁あって上京するも、話の食い違いからやむなく井上工業に住み込みで働きながら、民

間の中央工学校土木課(夜間部)に通った。

その後数々の職を経験し、海軍兵学校をめざして専門校にも通ったが、母親の病気の報を聞き

やむなく実業に的を絞った。

1936年(昭和11年)中央工学校を卒業し、建築事務所に就職した後、ちょうど1年で彼は独立

し「共栄建築事務所」を早くも設立。

偶然の出来事から大河内正敏と知り合い、その関係から理研コンツェルンから数多くの仕事を

頂く。

大河内正敏

大河内 正敏(おおこうち まさとし、1878年明治11年)12月6日1952年昭和27年)8月29日)は、物理学者であり実業家である。

東京府出身。子爵理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。身長は180センチと長身だった。妻は大河内信古の娘・一子。子は大河内信定大河内信敬。孫は女優河内桃子。無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる
引用:ウィキペディア
URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/大河内正敏

1938年徴兵検査で甲種合格し、陸軍騎兵第3旅団に入隊。

部隊内の事務や文章表現力に長けていたことから上官に一目置かれ、入営後1年後の3月には騎

兵上等兵となったが、その年の11月にはクルップ性肺炎を患い翌年1941年2月に内地へ送還さ

れ治癒後の10月には除隊した。

除隊よく月には、早くも飯田橋に田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月には、家

主の娘の坂本”はな”と結婚。

併せて家主の事業(土建業)も引き継ぐこととなった。

1943年(昭和18年)12月には、田中土建工業と改組し設立。

また、以前の理研コンツェルンとの繋がりも復活し、現在のリケン等から仕事の請負も好調に

推移してついに年間施工実績が全国50位にまで急成長を果たした。

政治家・田中角栄誕生の秘密

これ以降は、本日のNHK BS

「アナザーストーリーズ「そして田中角栄は首相になった~44年目の証言~」

に詳しく語られていたので、要約して話を進めてみたい。

田中角栄の自伝にそのヒントは隠されていた。

それは、終戦直後の事だった。

ある日進歩党の重鎮だった大麻唯男が角栄を訪ねてこう切り出した。

「君、いくらか出してくれんか?」という事だった。

私は快く承諾した。

それから半月ほどして大麻さんから「今度の選挙に立候補しないか?」というはなしがあった。

大麻氏は、角栄のところに来ると言う事は、お金がある事を知っていたのだろう。

かなりの額であったからこそ、政界進出を押したのではなかったか。

何故これほどの大物が訪ねてくるほどのお金を角栄が手にできたのかは、後述する。

角栄が初出馬をしたのは、27歳の時だった。

当時の演説を聞いた西川勉(91歳)は、こう振り返る。

「聞いたことのない名前の若者が大声で話す。しかもちょび髭をはやしていた」

当時としては、異例中の異例で、こんな若者が出馬して良いものか?というようだった。

当然と言えば当然かもしれないが、角栄は落選する。

しかし、翌年には再チャレンジし、貧しい新潟が発展するための方策を熱く語ったという。

「新潟と関東を隔てる三国峠を切り崩すんだ」と。

「そうすれば、新潟は雪の苦しみから逃れられる。切り崩した土砂は、海に運んで新潟と佐渡を繋げばいい!」

「越後は遅れているのだから、もっと急いでやらなければダメなんだ!」と鉄道や道路に力を入れる事を語りかけた。

その事が、新潟県民の心を揺り動かしたのか、角栄は28歳で国会議員に当選をした。

角栄逮捕!

しかし、すぐに事件は起きた。

代議士2年目の冬、収賄の疑いで逮捕。

炭鉱に関する法案に反対するよう賄賂を受け取ったとして起訴されたのだ。

無実を訴えたが、獄中へ。

そして衆議院が解散になってしまい、角栄は獄中から立候補を余儀なくされたのだ。

この時、角栄に代わって奔走したのが”入内島金一”だった。

角栄が状況以来の友人であり、田中土建の幹部でもあった。

金一も収賄容疑を受けたが一足先に釈放。

角栄も無実と訴えた。

本人は無罪と言って立候補したが、それを証明する人がいない。

「金一さんが出て来れたのだから、本人は間違いなく無実だ」と演説して歩いた。

「角栄が有罪だと分かったらどう責任を取るのか?」と言われて、「私は嘘をついたことになるから、その時は腹を切る!」と話したという。

間もなく角栄は釈放されたが、投票まであと10日しかない。

急ぎ新潟へ向かった角栄は、ある村に「タノム」と電報を打っていた。

そこは、雪深い現在の南魚沼市であった。

後に、熱狂的に角栄を支える事になる南魚沼。

富所健太郎さんは、父と二代にわたって角栄を応援し続けた。

電報を受け取った父四郎さんたちは、家々を回り角栄のために活動資金を必達で集めた。

角栄は、その資金を持って実家にとんぼ返りで帰ったという。

皆金のない中、彼を支えた。 そこから南魚沼と角栄のつながりが始まった。

何故角栄を助けたのか?

何の実績もなかった角栄を何故そうまでして助けたのか?

当時の南魚沼は雪の多い新潟の中でも特に雪深く交通の便も悪い土地。

前回の選挙で、わざわざやって来た角栄に皆が感激したからだったという。

当時、山間の地区を彼ほど回る候補は珍しかった。

そして、獄中からの異例の選挙となった角栄は辛くも当選。

彼はこの”恩”を修正忘れなかったという。

以後、支援に報いるように山間の村にトンネルや橋を次々と建設していった。

また、長岡市三島谷 山田誠一さんは、村の不便を解消したいと角栄に陳情し、護岸工事が完成した時角栄は、「裏日本の恵まれないところに関東並みの予算を付け、それで国全体をよくするんだ」と演説し、「道路をよくする」という希望のある話をされるので皆田中先生に期待をしたのだと当時を振り返りこう語った。

昭和28年、各地にあった後援会を一つにまとめ、「越山会」を発足。

「恩」と「利」で繋がった越山会に支えられ、以降角栄はトップ当選を重ねていった。

越山会というのは、後援会ではなく一種の「民衆の共同体」だ。

自分たちが主役であり、田中角栄はその中心にいて東京・政府とのパイプ役という関係だった。

後年ロッキード事件の直後の選挙であっても、角栄は22万票もの票をとってトップ当選している。

格差を超えたいという切実な夢が人々と角栄とを結び付けていた。

そして第64代内閣総理大臣に

昭和47年、初当選から約25年の月日が経過し、第64代内閣総理大臣に就任したが、なのもかもが異例ずくめだった。

最終学歴は高等小学校卒、しかし彼の演説は人の心をひきつけた。

発言はいつも明解そのものだった。

大蔵大臣になって最初の演説では、並み居るキャリア組の官僚を前にして、「私が田中角栄だ。高等小学校卒業である。 出来る事はやる。出来ない事はやらない。 だが、全ての責任は私が背負う。

そう言い放ち、多少角栄を小ばかにしていた官僚の心を一気に取り込んでしまった。

天才的な人心掌握術で頂点を極めた男。

その実像をライバル、記者、後援会の3つの視点からひも解いてみよう。

第一の視点、ライバル

1972年、昭和47年、にわかに政局はあわただしさを迎えていた。

7年に渡って政権を維持してきた佐藤栄作が首相を退く意向を示し、後継者争いが始まった。

この戦い、角栄は、決して本命ではなかった。

最有力候補とみられていたのは、角栄よりも13歳年上の”福田赳夫”(1905~1995)であった。

東大卒、大蔵官僚出身、福田は正にエリート中のエリートだった。

そこに高等小学校出の角栄が仕掛けた。

いわゆる角福戦争は、史上最も熾烈な総裁選と呼ばれる事になる。

その内幕を知る人物がいる。

学生時代から福田に仕えた元秘書の佐藤静雄さんだ。

「二人は全く違ったタイプであの角福戦争のような日本の政治史であれほどの闘いをして総裁を選ぶという事はもうないと思う」と、それだけ熾烈であった。

佐藤氏の福田の印象は「怖くて目が鋭く官僚出身だけに非常に切れ者という感じだった。
日本刀でスパっと切る感じで、皆先生の前では緊張して立っていられない様子だった。」

一方、角栄については、「最初見た時は、背が小さくてビックリした。 ところが脂ぎって何かやる感じが伝わって来た。 たたき上げだけが持つギラギラしたものを感じた。」

「政治のプロは福田赳夫だが、角栄さんには、庶民的な人、庶民の仲間という感じでしょうか? 自分たちの為にきっと何かやってくれる。」という感じだったと話した。

佐藤栄作は福田に後継を譲るつもりでいた。

福田も後継者は自分自身と自負していた。

ところが総裁選の2カ月前5月、角栄が急きょ佐藤派議員81人を引き連れ田中派を旗揚げした。

「新しい時代には新しい政治家が必要であります。私は、国民の皆さんと一緒に考え、熟慮し、断行いたします。」

こうしてドンドンと佐藤派の票取りが始まり、ついには田中派を作ってしまった。

前出の佐藤さんは、内心「危ないなあ」と密かに思ったという。

  
大平正芳        三木武夫

出馬したのは、角栄、福田に加え”大平”、”三木”の4人で自民党合計476人の票を争う事になった。

当初は福田が優勢だったが、徐々に風向きが変わり始める。

第二の視点、記者の目

当時、番記者だった増山栄太郎氏は、あの総裁選の独特の空気を覚えていた。

「あの時の勢いは田中にあった。 田中は、総裁選直前に日本列島改造論の本を出し、当時ベストセラーだった。 今までの政治家は全て大卒で官僚などを経て政治家になった。 しかし、角栄みたいな小学校しか出ていない男が総裁選に出てくる事自体が当時として驚きと共に期待感があった」

総裁選直前、それぞれの陣営は票固めに入った。

福田の秘書、佐藤は、投票の約束を取り付けた議員をホテルに囲い万全を期した。

当時は国会議員が地方議員を引き連れ、自らが押す候補の為にそれぞれの陣営も同じようにホテルに缶詰めにしてどっちが多い。少ないとやりあっていた。

福田派は、赤坂プリンスホテル、そして佐藤氏が囲った党員は20名ほど。

一方、田中派も向かいのホテルに党員を囲う。

佐藤氏は勝機があると踏んでいたが、勝負の朝にその事件は起きた!

投票を約束した党員たちが部屋からゴッソリといなくなったのだ。

残った党員はほんの僅か、後は全て角栄へと鞍替えしてしまった。

その時一人当たり1,000万づつ渡されたのではないか?という噂が流れた。

佐藤氏は当時、「金をやらないからそうなったんだ。」と、随分いろんな人に言われたものだと話した。

総裁選を取材していた増山氏は、「田中の選挙事務所から前の晩、トラックで運び出す人を何人もいた」という。

その行先は、三木派の所だったり、中曽根のところだったり、相手は福田だから「俺という金がトランクの中に入っていたと思う。」と言う。

しかし、残念ながらトランク問題について直接見た者の目撃証言は得られていない。

いよいよ投票

そして、いよいよ投票である。

角栄156票、福田150票、大平101票、三木69票。

一回目の投票で、福田を6票上回ってリード。

その後、二人で争う決選投票で「衝撃」が待っていた。

田中角栄282票! 福田赳夫190票。

それは、角栄が自由民主党の総裁に選ばれた瞬間だった。

敗れた福田は、「私が敗れたのは、ひとえに私の不徳の致すところ」と静かに語ったのだが、秘書の佐藤氏は、福田の胸の内をこのように代弁した。

相当に腹立たしかったでしょう。」角栄は、「金を使わない選挙をやろう!派閥の力をぶつけ合うのはやめよう」とあれほど言って来たのが、まともに金の力と派閥の力でやって来た。

福田の理想とは相当かけ離れた選挙だったと・・・

そして中国との国交回復

二日後、角栄は第64代内閣総理大臣に就任し、わずか三月足らずで偉業を成し遂げた!

国交が途絶えていた中国を訪問し、難航していた交渉を成し遂げ、国交を回復させたのだ。

さらに、列島改造論を掲げて全国の交通網などのインフラ整備を推し進めた。

そして今

あの総裁選から44年、敵陣営にいた前出の佐藤氏の目には、角栄はどのように映ったのか?

「角栄さんは、金ばかりではなく本当に好きだった。人間的魅力があり、その上に金がかぶさっていた。権力と金が合わさったのだからそれは強いです。」

そしてもう一つ意外な事を明かした。

「角栄さんが総理大臣になった時”今太閤”と福田先生は言ったのだ」

「皮肉ではなく、福田は角栄を本当は好きだったのだと思う。 福田先生も角栄さんの人間的な魅力、皆から好かれる魅力を認めていた。それは、福田にはないものだったから」

敵すら魅了する愛嬌と剛腕で角栄は、頂点に上り詰めたのだ。

第三の視点、後援会

内閣総理大臣、田中角栄の誕生。

この瞬間を誰よりも待ち望んでいた人々がいた。

それは、地元新潟の応援者たち。

角栄のばく進のエネルギーは、彼自身もさることながら選挙で圧倒的な応援をし続けた地元の力だった。

しかし、角栄と地元の絆は簡単に生まれたものではなかった。

きっかけは角栄が初めて迎えたピンチだった。

角栄を支えた人々

じもとの後援会である越山会。 この強力な繋がりはどうして生まれたのであろうか?

越山会の誕生のうらには様々な危機があった。

選挙の度に角栄を支えた後援組織「越山会」は、固い結束が最強の集票マシーンの異名をとった。

先にも述べた通り、角栄は他の候補者があまり通わなかった山間地や雪深い地方に足しげく通い、そして陳情者から陳情されたことで可能なことは、全て実行に移していった。

つまり、支援をしてくれる後援会の人々には、徹底して道路やトンネル、橋の建設などで暮らしをよりよくする努力を惜しまなかった。

そして、その恩に報いるよう越山会を中心として後援者と角栄は固い絆で結ばれていった。

角栄は何故多額の金を手に入れたのか?

先にも述べたのだが、戦後の混乱期に角栄が何故大物政治家までもが政界へと誘うまでに大金を手にする事が出来たのか?

それは自伝から浮かび上がる大きな後ろ盾があったことだ。

「理化学研究所」通称「理研」である。

日本の科学関係の中心であった「理研」は、戦前その研究成果を活かし、軍需物資を生産する工場をいくつも持っていた。

角栄は「理研」から次々に仕事を請け負い事業を拡大していった。

とりわけ巨額の仕事が終戦間際の昭和19年に請け負ったピストンリング工場の移設工事だった。

しかし、決して大きくない田中土建工業が何故これほど巨額の仕事を手にすることが出来たのだろうか?

それは、理研の幹部として当時工事を発注した”星野一也”だ。

彼は、角栄と同じ新潟県柏崎の出身で、戦後も角栄と繋がりを持ち続けた人物である。

星野一也氏によれば、理研が角栄に発注をしたのは、空襲の激しい東京からピストンリング工場を移す仕事であり、移設先は朝鮮であった。
いつ爆撃され撃沈されるか分からない危険な仕事だった。
誰もがしり込みをする危険な仕事に角栄だけが手を上げた。

角栄はあらゆる知恵を振り絞ったという。

機械類だけで500台あったと言われ当時の金で総額2,400万円の工事費、今の額に直すと150億円の仕事が転がり込んできた。

たまたま新潟港に停泊していた駆逐艦に積み込んで運ぼうと艦長に酒を飲ませ、勿論金も払ったと思うが、運ぶことに成功したのだそう。

こうして、朝鮮に角栄らは上陸したのであったが、請け負った仕事がここで幻に終わる

戦争が終わってしまったからである。

この時、朝鮮にはソ連軍が侵攻し、角栄らは四面楚歌の状況となる。

急ぎ日本に戻る事になるのだが、その時の事を自伝にこのように記している。

「私の在鮮全財産と工事材料や現地投資の一覧表を示して『この財産を新生朝鮮に寄付する事を宣言して壇をおりた。』」
引用:田中角栄著「私の履歴書」より

しかし前出の星野氏は「そんな訳はない。あいつが全部おいてくるはずがない。」と話した。

事実、8月15日に戦争が終わり、その知らせを聞いた後8月26日には東京にいたという。

星野さんが聞いた話は「当時テジョンからソウルまで車を夜通し走らせて銀行に行き、現金に換えた」と「ソウルの銀行で軍票を現金に換えた」という。

星野さんが振り込んだ額は、全体で2,400万円の内の1,500万円分の軍票として渡したので、そっくり落とせば現在の額にして90億円の金が手に入ったと思うという。

当時の混乱期に終戦を聞いてからわずか10日で日本に戻っていたのだ。

もしこれが本当だとすると、角栄は、工事代金の大部分を現金で手にした事になる。

それでは横領したことになるのではないか?

ここで、星野氏が角栄について話した言葉がある。

「後に角栄は、金権政治家と呼ばれるが決して彼は人の金をだまして手に入れた事はない。自分の才覚とあとは運があって得た金を政治活動に使っているのであって、決して私服を肥やす為に使ってはいない。」これが星野氏が角栄を許したところだという。

そして、「角栄は、人に迷惑をかけて金を作る事はしなかったと俺は信じている」と。

これは、運以外の何物でもなかったろう

もし、終戦が一年早ければこんな仕事はもらっていない。

そして、一年遅ければ、工事代金は受け取っていたであろうが、資材は買わなければならなかったのだから”濡れ手に粟”という訳にはいかなかったはず。

正に巨額の金を得た事が角栄の転機になったことは間違いない

圧倒的な力の陰につきまとわれた金の闇。

それは、戦争の混乱を潜り抜けた男の宿命だったのだろうか?

田中角栄という人物

田中角栄という人物は、それ自体が一つの事件だった。

誰にでもチャンスはある。

そこまでも成長できる。

田中角栄は、そんな夢を見ることができた”昭和”という時代の最後にして最大のキラメキだったのかもしれない。

田中角栄が今に問いかけるものは一体何だったのであろうか?

彼の母校、新潟県柏崎市立二日小学校には、59年前に初めて大臣になった時の角栄が贈った”書”が残されている。

そして、今年の6月に中国無錫市より修学旅行隊が訪れたという。

今でも、彼の功績は脈々と受け継がれている。

角栄は今の時代に失われた何かを確かに持っていた。

強烈な何かを・・・・

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